棄てられた皇軍兵士たち
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鈴木健二/蘇 鈴木
「全身が破片創です。首の所は摘出せず、記念に残してあります」
勤業報国青年団の隊長からいいつけられて入隊しました。ラバウル爆撃は酷かったです。1日1千機から2千機の爆撃がありました。その合間に農作業をやっとったですよ。敗戦の時はがっかりしました。いままでの努力が水の泡となって消え、泣きました。
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李 比呂志/李 廣志
「父・李爐はもしもの事があればこの写真を祀ってくれといって出征しました」
「生まれてくる子が男だったら、フィリピンの比、ルソンの呂をとって比呂志にしなさい」という戦地からの最後の手紙によって、わたしは名付けられました。母は父の遺言を守って、苦労してわたしを育ててくれました。あなたは父のない子だから、転んでも自分で起きなさいと独立心を育てられた。おじさんやおじいさんに無駄飯食いと迫害されて、肩身の狭い思いをしました。6歳の時、あまりの生活苦に耐えかねた母が首を吊ろうとしているのを目撃した。お母さんが死んだらわたしはどうなるのかと言い、思いとどまらせました。その時の苦しみを考えるといまでも涙がでます。
李爐の遺した修了証書と写真
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大石忠義/パジヨロ・カピ(排灣族)
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今川輝三郎/余 耀輝
「40年、修繕に修繕を重ねた義足です。あせもで錆びたりして、はずすと2度くらい(体温が)違います。しびれてしまうので、朝つけたら夜まではずしません。菊の紋章入りの義足ももらいましたが、ビスがだめになると使えなくなるのでとってあります」
志願でも召集でも同じことです、行かなくてはならない。現地で1ヵ月訓練を受けて、治安工作に当たりました。終戦時は目黒の海軍病院にいました、義足をもらうために。 [ top ] |
洪 坤圳
「いまでも皆はわたしの畑を見てこれは“日本精神”だという。負けず嫌いで勇ましいという意味だから、嬉しいよ」――煙草の葉の選別をしながら
農業専修学校を出て台中の農業試験場で2年間奉職してました。徴用されて、訓練を受けてお国のために喜んで戦争に行ったよ。農作物を栽培して海軍に供給する。敵軍は爆撃のみでラバウルには上陸しなかったので、負けたとは思わなかった。戦地では差別はなかったよ。
右端が洪坤圳さん。左から2人目に洪火灶さんがいる [ top ] |
洪 火灶
「裁判8年の感想をいわせてもらうと、司法の独立は嘘だ。公正じゃないよ」
昭和17年(1942年)に志願して、第3拓南農業戦士訓練所で3ヵ月の訓練を受けた。翌年3月に戦地に行き、昭和19年(1944年)10月に爆撃により足を切断。終戦の翌年に氷川丸で帰国した。
1979年5月の東京地方裁判所・第9回口頭弁論で、千葉泰介証人により洪火灶さんの暮らしぶりが紹介された。それによると、田畑を全部売り払った後に長らく台北の小学校の小使いをしていたが、1978年にアヒルを飼う商売に転職したという [ top ] |
鄭 武定
昭和17年(1942年)に招集されて、戦地はビルマルート雲南龍陵。戦況が悪くなって、工兵隊長は脱出命令を出して自殺した。わたしはひとり山中に逃げたが、爆撃で倒れた家の下敷きになって背中を打撲して意識を失いました。その時ビルマの華僑に助けられてバンコクの病院に入院させてもらった。6ヵ月入院して、翌年、ビルマのもとの隊へ戻ろうと日本軍を捜しにいったのだが日本兵の姿は見えなかった。
鄭武定(右)と出征中に生まれ39年目に対面した長男鄭金太郎(その後鄭再成と改名)
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洪 廬嘴
「大黒柱をとられて苦労してきたのに、何もしてくれない日本人が恨めしい」
女の子4人を残して、大黒柱の主人は戦死しました。わたしは瓦工場の女工をしました。重くて暑い仕事です。体の具合が悪くても、子どもたちを食べさせるために一生懸命働きました。その結果がこの有り様です。心臓が悪く、頭はふらふらでひきつけは起こす……。
洪廬嘴さん。内職の道具を前にして [ top ] |
張 藍好と張 甲二
![]() 昭和18年(1943年) 張甲四(中央、日章旗を持つ)出征時の写真。母は向かって右隣、長男・甲二は後列右端
――母・張藍好の話――
昭和60年(1985年) 上の写真と同じ場所で 張藍好と長男・甲二
――兄・甲二の話―― [ top ] |
ケ 来添
「右下の賞状をもらったのはわたしだけです」
足が不自由なので、昭和22年(1947年)に畑で転んで右腕を石にぶつけて傷口が化膿して、切断しました。医者は余りの貧乏をみかねて、お金をとりませんでした。
「朝食のあとは1日中この椅子に座っています」 [ top ] |
山口達男/バッサオ・ワタン(泰雅族)
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長寅健一/張 長寅
「戦前、わたしの家はこの地方で一番大きな用品雑貨屋をやっていた。水田も10町歩あり、国語家庭でもあった」
熱地農業技術員養成所の1回生だったが、ラバウルでオーストラリア軍の機銃掃射にやられて、右腕を失った。戦地では上官が、もし死んでも家族は国が面倒見るから安心しろと言ってたよ。
「ずっとこの腕を隠して生きてきた」 [ top ] |
王 朝坤
「わたしは明日かあさっていなくなる(死ぬ)が、天皇陛下に忠誠を尽くしました」
役場の半強制で召集されて小行李(しょうこうり/弾薬運び)として日支事変の上海上陸作戦に参加した。3、4回手柄を立てて勲八等瑞宝章をもらった。2年戦争に参加して、負傷し九州の小倉病院に4ヵ月入院し、後送された。勲章は二二八事件〔*註〕のころに捨てた、書類も捨てたよ。
「桃園の中学を出て、仕事は百姓、田んぼを作ってた」――補正(村長)や農業実行組合の組長を務めたこともある王朝坤さん。もうけた五男三女のうち長男だけが帰らない
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楊 周球
「生きているうちにもう一度あの子の顔が見たい」
わたしの家は製糖会社の貧しい小作で、10人きょうだいの長子だった息子は日本語ができなかったのですが、部落書記に勧誘されて入隊しました。飼っていた牛の面倒をよくみて、兄弟げんかはしないで仲良く畑仕事をするように――そう、涙ながらに言い残して。わたしは涙は見せないようにしました。 [ top ] |
蔡 順庫
「日本精神はバカ精神だ。バカ正直だ。だからこんなひと月千元のあばら屋に住んでるよ」
馬場中隊長にはずいぶんいじめられた。負傷してるのに薪割りをさせられたよ、飯を食べるなら仕事をしろとね。軍刀で尻をなぐられたしビンタもくらった。いま寒くなると傷跡の筋が引いてそれが頭にまできて、走り回る痛さだよ。終戦の時、かわいそうなもんだよ、空襲でもだいぶやられたよ。
太ももにある貫通銃創の傷跡。「この怪我じゃ子どもはできないと思ったから、結婚は30歳。でも毎年できて5人だよ。金がないからまだ3人は結婚していない」 [ top ] |
湯川孝二/ユウスウグ(鄒族)
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松下和子/ロビ・ロバオ(泰雅族)
「母(写真左)の生活を見ていると苦しみがよくわかります」
父はわたしが2歳のとき戦死し、母は戦後ケガして帰ってきた兵隊と再婚しました。粟ご飯と芋で大きくなりました。学校へは靴がなくて裸足で行った、着物は固い麻でつくったもの。
泰雅族の民族衣装をつけた松下和子さん [ top ] |
吉川正義/ワタン・ノウミ(泰雅族)
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加藤直一/パキシャン・ナオ(布農族)
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南郷元孝
「戦争は負けると前々からわかっていた。どんな負け方をするか、負け方の問題。ともあれ、残念だったことは間違いありません」――海軍中尉南郷元孝
国語家庭ではありませんでしたが、小学校から日本人と一緒に教育を受け、台北一中に入学。昭和17年(1942年)、広島文理科大学〔現広島大学〕2年のとき召集され海兵として3ヵ月の訓練ののち中尉に任官されました。
「短銃と軍刀は二二八事件のとき淡水河に捨てましたが、この“恩賜の煙草”は記念にとってあります。まだ香りはありますよ」 [ top ] |
追記
1985年8月26日に東京高裁で下された判決は、控訴棄却という無情なものだった。だが判決のなかで裁判長は「原告らがほぼ同様の境遇にある日本人と比較して著しい不利益を受けていることは明らか」とし、「戦死傷の日から40年以上が経過している以上、早急にこの不利益を払拭し、国際信用を高めるよう努力することが、国政関与者に対する期待であることを特に付言する」と、国の責任を指摘した。
原告のひとりだった全永福(竹中武男)さん一家。右端は日本人警官。一家には4人の子どもがいたが、食糧事情が悪く戦争中に2人を亡くしたという ◆ ◆ ◆
取材させてもらった30余名の台湾人元日本兵の遺族や傷病兵のうち、印象に残った人を挙げてみる。まずは、洪坤圳(こう・こんしゅう)さんである。彼は「日本精神」とあだ名されていたが、「日本精神」とは勤勉で正直で責任感が強く、約束を守ることだという。戦後の反戦平和教育を受けていたわたしは、植民地には抑圧や強制しかなく、いまの韓国や中国のように台湾のほとんどの人たちも反日なのだろうと思っていたので、大変な驚きだった。 払い戻しのない軍事郵便貯金の通帳を見せる洪坤圳さん(1995年)。その後こうした「確定債務」はわずか120倍の金額で払い戻されることになった
次に挙げたいのは、台湾で裁判を支援していた高聰義(高聡義/こう・そうぎ)さん。高砂族で最初に会ったのはこの方だった。あの山深い霧社の、昔風の日本家屋を訪問したとき、彼は奥さんがいま台北に行って不在だから、と自ら日本風の家庭料理を作ってくれた。そのなかにあったキュウリの酢もみは甘すぎて、生まれてはじめて口にした味付けだったが、遠来の客のためにわざわざ台所に立ってくれた高さんの好意は忘れられない。もちろん、感謝しつつ全部食べた。 ◆ ◆ ◆
この取材は、まったく個人的に始めたものである。週刊誌で元日本兵たちの起こした訴訟の記事を読んだのがそもそものきっかけだった。
1984年に他界した夫(全永福/竹中武男)から裁判を引き継いだ妻の全阿味さん(布農族)。「夫は補償をもらったら新しい家でも建てよう、と言ってました。心残りで死んでいったようです」 後書き
話を聞かせてもらった元日本兵たちは、記事で記したように、ほとんどが大正時代の生まれである。わたしの父は大正11年生まれなので、つまり父と同じ世代だ。父は戦地には行っていないが、陸軍戦車隊の一員として終戦を迎えた。わたしがこの取材をした当時(1985年)にはもう亡くなっていたため、台湾人元日本兵について父子で議論を交わすというようなことはなかった。しかし、元日本兵たちへの取材を進めるにつれ、わたしは亡父のことを何度も思い出さざるを得なかった。
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